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Le premier homme 最初の人間

フランス映画 (2011)

ニノ・ジュグレ(Nino Jouglet)が主人公ジャック・コルムリの少年時代を演じる文芸作品。『異邦人』で知られる〔悪く言えば、『異邦人』と『ペスト』でしか知られていない〕早世(46歳)の作家アルベール・カミュの未完の遺作にして自伝的作品『最初の人間』(1960年、1994年出版)の映画化。解説を書く責任上、原作を読んだが、①未完と言ってもこれほど未完成とは思わなかったし、②映画化と言ってもこれほど原作と乖離しているとも思わなかった。私の大好きなイギリス19世紀の文豪ディケンズの場合、未完の遺作『エドウィン・ ドルードの謎』は、分冊形式で刊行されたため、全12分冊の6分冊で終わっていても、刊行された半分は完成版である。しかし、『最初の人間』は草稿にすぎず、内容的にも未完、文章の推敲もできていない。そのような作品から映画を作ること自体に無理があり、できあがった映画も原作から大きく外れたものとなった。映画は、中年のコルムリと小学生のコルムリのシーンが7対3程度の比率で構成されているが、このサイトの関心事である少年時代のエピソード12を見ても、原作と全く同じものは1つもない。原作と関連付けられるものは7つだが、内容的に近いものは1つだけである。従って、ほとんどが映画製作者による創作と言っていい。

フランスからアルジェリアに移住した第一世代の子供として、貧しい家庭で育ったジャック(カミュの分身)。父は若くして戦死。そのため、ジャックは祖母(金銭的に貧しい上に、精神的にも貧しく、吝嗇家で、厳しいだけの文盲の老婆)の家に、母と一緒に住まわせてもらっている。子供には厳しい環境だが、明るくて、頭がよくて、サッカー好きなジャックには、祖母に叱られる時の鞭を除けば楽しくて興味の尽きない毎日だった。そうしたジャックの日常を、映画はエピソードの積み重ねで描いていく。貧しいため、小学校の卒業と同時に働かされるところを、ジャックの才能を見込んだ教師によって、奨学金をもらってリセに進学する道が開かれる。映画の残りの部分では、作家として著名人となりアルジェリアに一時帰国したジャックが、政治論争に巻き込まれつつも、母と会い、かつての恩師と会い、さらには自分のルーツを求めていく姿を描く。

ニノ・ジュグレの映画出演作はこれ1本のみ。誠実で人の良い主人公を演じるには最適な人選だ。演技力を要求されるような複雑な役ではないので、素人の子役を選んだのであろう。


あらすじ

1957年夏に数年ぶりに故郷アルジェリアを訪れたジャック。時代は1954-62年のアルジェルア独立戦争の只中。ヨーロッパ系住民とイスラム系原住民の共存を理想とするジャックは、母校のアルジェの大学での講演会で、聴衆のほとんどを占めるヨーロッパ系参加者から猛烈な反発を受ける。なにせ、フランス本国では、アルジェリア民族解放戦線の武装蜂起に対し、1956年4月には20万人の予備役が招集されるほどの国家的緊急事態の最中なのだ。ジャックの目の前に掲げられる「フランス領アルジェリア」と書かれた横断幕(1枚目の写真)。原作小説はカミュの自伝に近いが、そのカミュを、アルジェリア民族解放戦側は「馬鹿」と考え、ピエ・ノワール(ヨーロッパ系植民者)側は「裏切者」とみなした。中立を保ち、両方から嫌われるというパターンの典型だ。ジャックは、大学での講演の後、老いた母を訪ねる。海の見えるカフェで語り合う2人(2枚目の写真)。母が新聞をジャックに手渡す。「読めないけど、お前が出てる。いい写真ね」。母も、既に亡くなった祖母も、字は読めない。1948年にCIE(GHQの民間情報教育局)が行った調査では、日本人の識字率は97.9%だった。ジャック〔=カミュ〕の家庭環境が如何に貧しかったかが分かる。
  
  

母の住む生家に戻ると、母は、「疲れてないかい? ベッドで横になっておいで。シーツを替えておいたから」と勧める。ベッドに横になり、後片づけをする母をじっと見るジャック(1枚目の写真)。すると、画面は少年時代のジャックに切り替わり、同じようにベッドで横になっている(2枚目の写真)。ジャックは起き上がると、同じ部屋で寝ている祖母を起こさないよう、忍び足で部屋を出て行く。
  
  

真新しいサンダルを履いたジャックは、「ベッドに戻りなさい」という母の言葉を無視して外に出て行く。家の斜め向かいの路地の前にロバに牽かれた荷車が停まっている(1枚目の写真)。捕獲した犬を入れておく格子のついた車だ。捕獲人は近くのカフェで休んでいて不在。捕まった犬を撫でてやるジャック(2枚目の写真)。そこに、近所の「悪ガキ連」が押し寄せ、ジャックの反対を押し切って犬を逃がしてしまう。カフェから出てきた捕獲人は、犬のいなくなった檻を見て、アラビア語でわめくが、子供たちからは「犬の臭いがする」と野次が飛ぶ。路地に集まっていた子供達を追いかける捕獲人。10人いた子供達の中で運悪く捕まったのは、何もしなかったジャック。そのまま檻に入れられ、海岸まで連れて行かれる。「お願いです。出して。僕、何もしてないよ。やったのは、あいつらだ。僕じゃない」と頼むが(3枚目の写真)、アラビア語で何か言われるだけ〔英語字幕には入っていない〕。日本版のDVDには丁寧にこの部分の訳も入っている。それによると、「犬を10匹逃した罰だ」と言っている。それに対しジャックは、「今週は3匹しか逃がしてない」と反論する。捕獲人は「1匹につき1時間。そこに入ってるんだ」と言うと、ロバを連れて立ち去ってしまう。「行かないで。出して下さい。ムッシュー。お願いです」と必死で叫ぶが、効果がないとわかると、「くそったれ。脳たりん。人でなし。バカ野郎。意地悪」と罵り声に替わる。10時間は長い。夕方になり、ぐったりして格子の隙間から足を投げ出していると、捕獲人の子供が「きれいだ」と言って、新品のサンダルを盗んでいってしまう。まさに、踏んだり蹴ったりだ。原作にはこのエピソードはない。第一部6乙節の「小学校」の中に、犬の捕獲人の話は出てくるが、子供たちは捕獲人に捕まらないよう、犬を追い立てることはするが、逃がしたとは書いていない。だから、当然、ジャックが捕まることもない。
  
  
  

真っ暗になってから帰宅したジャックを待っていたのは厳しくて吝嗇家の祖母。原作の第一部6節の「家族」の中に、祖母のことが「女予言者のような長い黒のドレスを着て、背筋を伸ばし、無知であるとともに思い込みが激しい祖母は、少なくとも、諦めというものを決して味わったことがなかった。そして誰にもまして、ジャックの少年時代を牛耳っていた」(大久保敏彦訳)と書かれている。その祖母が、ドアの閉まる音を聞きつけ、母に「ここに、連れておいで」と命じる。どうされるかは分かっている。覚悟して部屋に入るジャック(1枚目の写真)。「えらく帰りが遅いじゃないか」。さらに、ジャックが素足なのを見て、「新しいサンダルはどこにやったんだい?」。「失くした。全部捜したけど、どこにもなくて」。「なら、夏中 素足でいるんだね」。そして、母に、「お前の子供に必要な物を お渡し」と命じる。母は、ドアの横に掛かっていた鞭を取って、無言で祖母に渡す。ジャックに「ドアを お閉め」と言って閉めさせると、「こっちへ」と命じる(2枚目の写真)。そこで画面は、母と叔父のいる部屋に切り替わる。聴こえてくる鞭の音。叔父は「打ち方が強い。嘘が大きい」と呟く〔叔父は、ちゃんとしたフランス語が話せない〕。鞭は9回。鞭打ちに関して、原作の第一部4節の「子供の遊び」の中に、状況は異なるが、次のような記述がある。「『ピエールが算数の宿題を見せてくれたんだよ』。祖母は立ち上がって、彼に近づいた。彼女は彼の髪の毛の匂いを嗅ぎ、まだ砂がいっぱいついている踝を手で触った。『海岸に行っていたんじゃないか』…祖母は彼の後ろに回り、食堂のドアの後ろに掛けてある牛の腱で作った乗馬用の鞭を取って、彼の脚と尻を三、四回強く叩いた。それは声をあげるほど痛かった」。9回というのは、確かに多い。
  
  

次のエピソードでは、ジャックは母の働いている病院に向かっている(1枚目の写真)。病院で働くといっても、文盲なので、仕事内容は洗濯のような非熟練労働だ。ジャックが突然現れたので、びっくりして見つめる母(2枚目の写真)。ジャックは微笑むが、仕事中なので、「出て行って」と追い払われる。昼休みまで病院の前のベンチに座って待つジャック。熱心に本を読んでいる。将来作家になるだけあって、頭はいいのだ。このエピソードの最後で、ジャックは洗濯室の一角で、昼食を出されている。なかなか食べようとしないジャックに、母はアイロンをかけながら「お食べ」と言う。「第一病棟で出すものよ。お金持ち用」。とは言っても、不味そうなスープとパンが半欠けあるだけ。ジャックは母に「学校で、僕、母さんのこと看護婦だって話した。読み方 覚えれば、看護婦になれるんでしょ?」と訊く。母は、今でも薬くらい見分けられると言う。「どうやって?」。「色で」。悲しい返事だ。母は、帰りが遅くなると、また祖母に叱られるから、と食べるのを急がせる。それにお構いなく、ジャックは「おばあちゃんは、母さんが小さい時、やっぱり叩いた?」と訊く。「毎日ね」。「でも、母さんは 僕を一度も叩かないね」。「お前を泣かせたくないの」。それを聞いてにっこりするジャック(3枚目の写真)。なお、原作では、母の職業は家政婦になっている。だから、このようなエピソードは存在しない。
  
  
  

次が、学校でのエピソード。学校に関しては全部で4つもエピソードがあるが、中でもベルナール先生との「睦まじい」関係が最もよく現れているのがこれ。休み時間が終わり、生徒達が一斉に教室に飛び込んで来る。先生の姿がどこにもない。しかし、ジャックがよく見ると、黒板の下に先生の足が見えている。つまり、先生が黒板の裏に隠れているのだ。優等生なので授業の主導権があるジャックは、みんなを「しーっ」と黙らせると、黒板の横まで確かめに行く(1枚目の写真)。そして、先生に「お腹でも痛いのですか?」「水が要りますか?」と訊く。背中を向けてうつむいていた先生は、体を起こしてジャックを見る(2枚目の写真)。「予習をして来なかった」。「僕もです」。「だが、私は教師だ」。「重大ですか?」。「ああ」。少し変わった先生だ。「どこまでやったか覚えてるかな?」。「ナポレオンです」。「今日は、何をしよう?」。「教科書に書いてあります。一緒に見ましょう」。「手を貸してくれるか?」。「お望みなら」。黒板の裏から出て来ると、先生は生徒たちに「49ページを開いて」と言う。本当に授業の準備をしてこなかったら、教科書も見ずに49ページと言えるだろうか? ジャックは何も言われなくても立ち上がり、フランス第一帝政の項を読み始める(3枚目の写真)。区切りまで読み終わると、先生は、生徒達に「何か、分かったかね?」と訊く。全員「いいえ」と答える。先生は、「教科書を閉じて」と命じ、「君たちのお父さんを、一語で言ってみたまえ」と言う。戸惑って誰も発言しない。お調子者が手を上げて、「サイテー(Con)」と一語で言い。「僕の父さんはサイテーです。ナポレオン万歳」。笑う生徒達。呆れる先生。正直言って、このエピソード、サイテー。脚本の意図が全く分からない。先生は、①なぜ黒板の裏にいたのか、②なぜ教科書を中断したのか、③一語の意図は何か、④サイテーかナポレオン万歳のどちらが気に食わなかったのか? このエピソードは原作には存在しない全くの創作。その割には、前半の「ジャックの先生想いの模範生ぶり」を示した以外、映画に貢献する部分がない。さらに言えば、原作のジャックはこんな「ご機嫌取り」ではない。
  
  
  

ジャックが学校の中庭でサッカーをして遊んでいる。子供たちの中では上手な方で、1枚目の写真は見事にボールを蹴ったところ。写真の左端にぼんやりと黒く見えるものがボール。しかし、同じく写真から分かるように、彼は素足でプレーしている。その結果、足を切ってしまい、親指の付け根の傷を見ているのが2枚目の写真。ベルナール先生から、「なぜ、いつも素足でプレーしてる?」と訊かれ、「靴が傷めないように」と答える。「殊勝な考えだな。本に書いてあったのか?」。「おばあちゃんが言いました。おばあちゃんが何か言う時は、みんな黙って聞くんです」と答える(3枚目の写真)。原作では、前にも引用された第一部6節の「家族」の中に、休み時間に中庭で行うサッカーがジャックにとって「王国」だったと書かれている。映画では中庭は土だったが、原作ではコンクリート敷き。そのため、そこで普通の靴でサッカーをすると靴の底がすぐに磨り減ってしまうので、祖母にサッカーを禁止された。さらに靴底には寿命延長のため鋲が打ってある。そこでジャックは靴の底に湿った土を貼り付け、こっそりサッカーを楽しんだとあるが、素足でプレーしたとは書いていない。貧しさを強調するための演出だろうが、事実無根はよろしくない
  
  
  

次が、お金をくすねるエピソード。祖母が、肉屋に「子供だからってつけ込むなんて、恥を知りなさい」と強い調子で抗議している。「どうしました、奥さん?」。祖母は、ジャックが買ってきた肉の包みを肉屋の秤にドンと置いて、「重さは?」と訊く。「400グラム。それで?」。「孫は、肉を半キロ頼んで、お金を残さず渡したはず」。「彼が払ったのは400グラム分。だから これだけ」。「孫は、絶対嘘なんかつかない。嘘を付いたのは別の人間よ」。肉屋はジャックに「何か言うことは?」と訊く。「僕、半キロ頼んだ」(1枚目の写真)。肉屋:「残りの金は、何に使った?」。黙っているジャック。祖母:「警察を呼ばないと」。「ご自由に、奥さん」。「子供を不良扱いするなんて、この罰当たり(C'était goût damne)」。この最後の言葉にカチンときた肉屋。肉の包みを開けると、肉のかけらを放り込んで祖母に渡す。通りを歩きながら、祖母は、「お前は、正しく生きるんだよ。世の中、破廉恥な人間ばかりだ」とジャックに話しかける。良心の咎めに負けたジャックは、祖母の前の回ると、「おばあちゃん」と声をかける(2枚目の写真)。「何だい?」。「肉屋さんは正しいんだ」。「何だって?」。「お肉に払うお金がなかった。コインを落としちゃって」。「何を言ってるんだい?」。「トイレに入って、半ズボンを上げた時、コインが1枚ポケットから穴に落ちたんだ」。「なぜすぐに言わなかった?」。「怖くて」。祖母は、肉の包みを渡し、「これを持って すぐに肉屋にお行き。私が謝っていたと言うんだよ」。家に戻った祖母は、非水洗式のトイレの汚水溜に手を突っ込んで、ジャックの落としたコインを時間をかけて捜している。それを、ジャックが辛そうな顔で見ている(3枚目の写真)。一連の流れなので1つにまとめたが、正確には肉屋とトイレの2つのエピソードに分かれる。原作にあるのは後者のみ。これも第一部6節の「家族」だ。引用すると… 「二フラン硬貨が穴のあいたポケットから…歩道に転がり落ちた。彼はそれを拾い上げ…もう一方のポケットに入れた」。ジャックは、そのコインをサッカーの試合の観戦用に使おうと考え、トイレに落としたと嘘をつく。そのトイレとは、「風通しも悪く、電気も水道の蛇口もないそのトイレには、ドアと奥の壁に挟まれた少し高い台座にトルコ風の穴があいており、用が済んだら溜め水を流さなければならなかった」という代物だった。ジャックはそれ以上追及されないだろうと思っていたが、「突然、祖母が右腕を捲って、白く筋ばった腕を剥き出しにして」穴の中を探り始めると、動転する。「『何もなかったよ』と祖母は言った。『おまえは嘘をおつきだね』。…その瞬間、彼は汚物の中を探るよう祖母を導いたのは吝嗇ではなくて、この家にとって二フランをちょっとした財産たらしめている厳しい現実であることを理解した」。一家の貧しさが、切々と伝わってくる。
  
  
  

2度目の授業中のシーン。ベルナール先生が「幻燈機」を使って生徒に第一次世界大戦の悲惨さをスライドで映写しながら教えている。原作でも、この先生が「幻燈機を使う学校で唯一の教師」と紹介されているが、内容は博物学や地理としか書かれていない。一方、ジェルマン先生のクラスでは、自分も参戦していた戦争の実体験を話した書かれているので、映画化にあたり両者を一本化したのであろう。戦場での色々な死に方に対する映像を使っての授業(1枚目の写真)は、生徒達には衝撃的なものだったであろう。「腐乱した死体は、何週間も塹壕に積み上げられ、ネズミや虫の餌食となり、疫病が広がった」。生々しい説明だ。先生は最後に、「彼らは祖国に命を捧げたのだ」と結ぶ。それを聞いて、ジャックは「僕の父さんも『祖国』のために死んだんだ」と呟く。ジャックにとっても祖国はアルジェリア。しかし、父はフランスのために殺された。
  
  

次のエピソードが一番原作に近い。祖母と一緒に映画を観に行くシーンだ。当時はサイレント映画なので、映画の途中に一画面丸ごとの字幕が入る。それを読まないと映画の筋が全く分からない。祖母が映画館にジャックを同行させるのは、字が読めなかったからで、ジャックの役目は字幕を読んで聞かせること。しかし、上映中ずっとピアノが演奏され、館内も静穏でなく、字幕の中には祖母の知らない言葉もあったため、小声で伝えるのは大変なことだった(1枚目の写真)。訊き直す祖母の声が大きかったので、周りから「しーっ」との声も。文盲を恥じている祖母は、「眼鏡を家に忘れてくるなんて」と聞こえるように弁解する。観ているのが大人向きの恋愛映画なので、ジャックには登場人物の関係がよく理解できない。不十分な説明に、ジャックが物を知らないと言って怒る祖母。外へ出た祖母は、ひとくさり文句を言った後で、「学校はいつ終わるんだい?」と訊く。「あと1ヶ月」。「1ヶ月、叔父さんと働くんだよ」。「先生はリセに行けって」。それに対し祖母は猛然に反対する(2枚目の写真)。途中から一緒に歩くのをやめるジャック。
  
  

恐らく翌日。まだ日の出前。ジャックが寝ている叔父を起こす。「今日からだよ。働きに行かないと」。「そうだな」。祖母の命令は絶対だ。まだ暗い未舗装の街路を歩く2人(1枚目の写真)。ジャックが叔父と行ったのは、新聞を印刷する工場。巡回に来た社長が、幼いジャックを見て、「ここで何してるんだ?」とお付きの社員に訊く。「家が貧しく、可哀想なので雇っています」と答える。ジャックに歳を聞き、「算数はできるか」との質問に、「1×5=5」と九々を大声で唱えるジャック。日が経つと、ジャックは、印刷前の新聞紙の束を持って機械に運んだり(2枚目の写真)、印刷の終わった新聞をまとめたり、「活字」に触ったりと、だんだん新聞印刷の作業に慣れていった。1ヶ月が経ち、給料を手渡される。もらったお札を数え始めたので、「信じないのか?」と言われ、「確認です」と答え、コインまで数えてから「ありがとう」と微笑む(3枚目の写真)。このエピソードも原作にはない。そもそも、卒業前に働かされることはない。リセに入ってから夏休みの間、遊ばせてはおかないとばかりに働かされたと書かれてはいるが。
  
  
  

祖母が、進学に大反対なのを聞き、ベルナール先生がジャックの家に説得に行くシーン。夜、先生の来訪を家族全員が待っている。先生が入ってくると、祖母と母が立ち上がる。先生は、「お座り下さい」と言い、さらに、「座ってもよろしいですか?」と訊く。祖母:「もちろんです、先生様(monsieur le profésseur)」。最大限の敬語だ。「こんな状態でお迎えして申し訳ありません。今晩、この辺り一体が停電したものですから」〔祖母の家に電気はなく、いつも蝋燭を使っている。だから、これは、恥をかかないための言い逃れだ〕。「そうですか。きれいな家にお住まいですね」。「ありがとうございます、先生様」。「ジャックの将来についてお話ししたいのですが」。ここで、ジャックは叔父と一緒に外に出される(1枚目の写真)。映画は、ジャックと叔父に焦点が移る。叔父:「大きな学校、行くのか?」。「リセだよ」。お金のことを心配する叔父に、ジャックは奨学金がもらえると説明する。「成績が良かったり、家庭が貧しいと、お金がもらえるんだ」。「お前、両方だな」。そして、叔父はタバコを吸い方を教える。この時の表情が面白いので、①最初に吸わされてむせた後の叔父のパフォーマンスを見てジャックが笑う場面(2枚目の写真)と、②ジャックが叔父を真似て、深く吸い込んで思い切り吐き出した場面(3枚目の写真)を紹介しよう。少年の喫煙シーンの多くは、吸うフリだけだが、こんなに本格的吸い込んで、たとえネオシーダを使ったにせよ大丈夫かと心配してしまう。原作では、第一部6乙節の「小学校」に類似したシーンがある。ただし、先生の訪問は予告なしで、学校の帰りにジャックに同行する形で行われる。祖母は先生をそれほど歓迎したわけではないし、「先生様」とも呼ばない。そう呼んだのは、映画では一言も話さなかった母の方だ。進学の話になるとジャックは外へ出されるが、その時叔父はいない。だから、ダバコのシーンももちろんない。
  
  
  

ジャックが、ベルナール先生のアパートを訪ねる。息切れするほど階段を上がり、少し開いているドアを手で押す(1枚目の写真)と、画面は1957年に戻り、同じドアから顔を覗かせる中年のジャックの顔が映る(2枚目の写真)。母の家と違い 立派な部屋だ。ジャックは、お世話になった先生に献本すべくアパートを訪ねたのだ。しかし不在。カフェにいると教えられ アパートを出る。老人同士でゲームをしていた先生は、ジャックを公園のベンチへと誘う。そこで献本を受け、献辞を読み上げる(3枚目の写真)。「あなたがいなかったら、私のような貧しい子供に愛情を込めて差し伸べられた手がなかったら、あなたの教えとお手本がなかったら、これらすべては存在しませんでした」。最高の賛辞だ。
  
  
  

ベルナール先生は、別れ際に、「過ちは、革命そのものではなく、しいたげられた人々が 闘うことなくあきらめること。革命の暴力を正当化する 植民地主義の暴力だ。ローマと蛮族について話したことを覚えてるかね? 言わなかったことがある。蛮族の側からの視点もあるのだ」。この言葉から、小学校での ある出来事を思い出すジャック。授業の時、いつも先生を無視して後ろばかり見ているアラブ人のハムッド。教室にジャックとハムッドしかいなかった時、1人本を読むジャックをハムッドがいきなり襲ったのだ(1枚目の写真)。ハムッドはアラビア語で罵るが、英語字幕にはないので、DVDの訳をそのまま借りよう。「おべっか使いめ、この意味知らないだろ。学校じゃ優秀でも外じゃクズだ。表に出ろ。思い知らせてやるから。お前なんか男じゃない。オトコオンナだ。名前も女にしろ」。そこに生徒達が入って来て、ケンカをはやし立てる。そしてベルナール先生の登場。2人に、「誰が始めた?」と訊く。胸に手を当て「オレ」と言うハムッド。その潔さに、ハムッドの方を見るジャック(2枚目の写真)。ハムッドは、罰として、両手を頭に上げたまま中庭で立たされている。可哀想に思ったジャックは、近づいて行くと、貴重な昼食のパンを取り出して、「パン 食べる?」と訊く(3枚目の写真)。ハムッドは、何故かジャックの頬をぶつ。睨み合う2人。映画は再び1957年に戻り、ジャックはハムッドを訪れる(4枚目の写真)。このエピソードは原作にはない。ハムッドが、なぜあのような粗暴な行為をしたのか、そのようなハムッドになぜ会いにいったのか、説明は全くない。ローマと蛮族の寓話としては、出来が悪すぎる。因みに、原作で、ジャックは喧嘩をしなかったわけではない。ジャックが先生に褒められた時に「お気に入りめが」と陰口をきいたミュノのという出来の悪い生徒と、授業後に野原で決闘をして相手に大ケガをさせる。その時は、2人とも中庭で立たされた。しかし、その内容は映画とはむしろ逆で、このシーンに関して原作と映画の間には何の関係もない。
  
  
  
  

最後の過去への遍歴は、路上での爆弾テロの後、母の家に行った時に起きる。中年のジャックが、「僕のいいところは、すべて母さんのお陰だ」と言った後、老いた母が「お前が幸せなら、私には それで十分」と返事したのを受けてジャックが思い出にひたる。それは、卒業時に全員に課せられた一種の口頭試問の場での記憶だ。先生:「やあ、コルムリイ。君は、詩人だそうだな」。「僕がですか? いいえ」。「詩を書いたそうじゃないか」。「写したんです」。「他の生徒の詩かね?」。「いいえ、3人の詩人からです」。「今、暗唱できるかね?」。頷くジャック。「題は『悲しみ』です」。そして暗唱を始める。短い詩なので、3人分をどうまとめたのかは不明だが、詠み終わってたジャックは母の顔を見て微笑む(1枚目の写真)。廊下でそれを見ていた母も、誇らしげだ(2枚目の写真)。原作とは無関係のシーン。
  
  

回想シーンは、そのまま夏の海岸へと移る。人出でごった返す浜辺の緑地の中を、ジャックが2分20秒にわたって延々と歩く(1枚目の写真)。特に何かをするわけではない。ただひたすら歩き、途中で祖母と会い、「どこにいたんだい?」。「あちこち」。「母さんはどこ?」。「見てない」。「捜しておいで。すぐに来てって伝えなさい」と会話をかわし、海岸の方に捜しに行くだけだ。砂浜では叔父が寝ている。さっそく脚に砂を盛り始めるジャック(2枚目の写真)。仲良くじゃれ合う。ジャックが「僕の父さんって どんな人? 頭がいい? 真面目? 思いやりある?」と訊くと、「お前の父さん、いつも頭が固い」「頭は固いが、心は優しい」と答える。その後、海岸沿いの潅木の上にじっと座って海を見つめるジャックの姿が40秒続く。映画の中で一番ハンサム(3枚目の写真)だが、何のためにあるのかよくわからないシーン。以上、すべて原作とは無関係。
  
  
  

回想の最後。祖母が鞭を手に取って、「お入り」と声をかける。「ドアを お閉め」「こっちへ」。「こっちへ」の声はくり返されるが、ジャックはドアも閉めず暗闇の中でじっとしている。そして、開いたドアから外に出て行く。それでもくり返される「こっちへ」の声。その姿を母が見て(1枚目の写真)、その母を見るジャックと視線が絡む(2枚目の写真)。ジャックの少年時代最後のシーンだが、ここも意味不明。そして、画面は1957年に戻る。中年のジャックは母と一緒に車に乗り(3枚目の写真)、叔父に会いに行く。
  
  
  

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